チューリップ(仮)

ガラにもなくこんなことをはじめてる

「勝訴」のあれ

今朝ニュースで「勝訴」のあれをみた。頭のよさそうな人が「勝訴」とかなんとか書かれた紙をもって出てくるあれ。

頭のよさそうな人はいつも1人で出てくるものだと思っていたけど、今回は男女の2人組みだった。少し風があったもんだから髪や紙が吹かれて乱れていた。持ってくる間紙は巻物みたいにくるくる巻かれていたので、どんな字が書かれているかわからない。小走りで出てきた彼らは慣れない手つきでくるくる巻かれた紙を報道カメラの前で広げていく。広げた紙には筆と墨汁で、それはもう立派な字で「国の責任を否定」とかなんとかそれらしいことが書かれていた。

その間彼らはずっと真顔だった。もともとこのシーンにはなぜかクスッとくる魔力があったが、私は今回改めてくだらない妄想にとらわれてしまって、もういつにも増しておかしくてしょうがなかった。

きっかけはどうしてこんなに真顔を保っていられるのだろうと疑問をもったことからだった。

彼らの中には、この職についたからには「異議あり」と同じくらいこの「勝訴」をやるのを楽しみにしていた人が絶対にいるはずだ。今時こんなアナログなやり方をしなくても、裁判の結果をスマートに知らせる方法はいくらでもあるのだ。ホームページに掲載してもいい、ツイッターに呟いてもいい。そういったやり方の方が手間もかからず多数の目に触れることができる。それでもなおこのやり方にこだわるのは、そこまでしてでもこれをやりたいと思っているやつが少なからず存在しているからだろう。
それなのに彼らは、そんなに楽しみにしていた機会がついにやってきたにもかかわらず、その嬉しさを微塵も顔に出さない。ニヤつきたいはずの口元も自然に閉じられ上手にすましている。彼らはきっと頭がいい大人だから、嬉しさを顔に出すなんて子どもじみた真似はしないのだ。

このあと彼らはどうするのだろう。自分が担当した紙をもう一度くるくる巻いて、あるいは丁寧にしわをのばして、記念に家へもって帰ったりするのだろうか。

 

本当はもっと立派な理由があるのだと思う、でもいいのだ。事実は小説よりも奇なりというが、事実ではないことの方がおもしろいことだってある。

頭のよさそうな人たちだって、「勝訴」のあれをやりたがったりする。その嬉しさを真顔でごまかして大人ぶったりもする。自分が担当した紙は記念に家にもって帰ったりもする。

 

P.S.同居人いわくあれは「350年前から続く日本人の心」だそうだ。相変わらずくだらないことをいうのがうまいな。