チューリップ(仮)

ガラにもなくこんなことをはじめてる

神様のボート

同居人が隣ですやすや寝息をたてている。頬の産毛が月明かりにうっすら浮かんでみえる。手を触れると嫌がるので、こういうときはいつもただそっと眺めている。

私は彼の骨格、特に額から鼻、頬にかけての骨の感じがすきだ。顔に触れたときの皮膚の柔らかさとその下の骨の硬さ、そして頭全体のしっとりとした重みを感じるのがすきだ。

「神様のボート」の葉子も'あのひと'の額や背骨や肩のくぼみなんかの話をよくしていたっけな。彼女の生き方は身勝手すぎて私はすきじゃないけれど、彼女が'あのひと'のことや'あのひと'への気持ちを表現するときの言葉遣いはいつもすごくしっくりくる。

葉子なら、今の気持ちをどんな風に表現するだろうな。

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

人工知能の女の子の夢をみた

私たちは女子高生だった。クラスには人工知能のクラスメイトがいた。顔も性格もあの子に似ていた。可愛くて、茶目っ気があって、わがままだけど、人の嫌がることはしないような子だった。名前はマイコと呼ばれていたような気がする。

クラスのみんなには何かしらの設定がされていて、その設定を解除するとマイコは記憶から消えてしまうようになっていた。設定はとても手軽な動作で解除することができたが、普段の生活でマイコの事を忘れることはなかった。あるいは毎日記憶が作り直されていたのかもしれない。

ある日、何らかの理由があって、設定を解除しなければいけなくなった。解除しなければいけないことは事前にわかっていた。それがどんな理由かは忘れたが、卒業のようなイベントがあり、それに合わせて解除も必要な雰囲気だった。そのイベントは本当に卒業だったかもしれない。ただ、私には卒業よりももっと寂しくやるせない気持ちが満ちていた。

その日が近づいてきて、クラスからもどんどん人がいなくなった。その日までにはみんなここを離れなければいけない。私もそれに備え、近いうちに設定を解除することを周りに伝えていた。私もそろそろ行くから。そんな話しぶりだったと思う。

私はマイコにもそのことを伝えた。マイコはそのとき黒板の方から教室の後ろへ向かってのんきに歩いていた。私はちょうど教室の廊下側の列の真ん中辺りにいた。すれ違いざま、できるだけ何気なく聞こえるように努めながら伝えると、マイコはすぐにおどけた感じで目をぱっちりさせ、ニヤっと笑った後、そのまま何も言わず私の横を通り過ぎた。何か言ったような気もするが、とにかく私にはマイコの表情以外何も伝わってこなかった。私はその仕草にどうしようもない寂しさと悲しさを感じた。振り返って名前を呼んだが、マイコはそれを無視してずんずん歩いていく。私は無性に不安になった。引き止めるように何度も呼びかけながら追いかけて、すがりつくように抱きついた。

マイコは泣いていた。私と目が合った。心から涙を邪魔に思っているような目をしていた。教室中が夕日でオレンジ色に染まっていた。

結局この教室に最後まで残っていたのは、私を含めた4人のクラスメイトと、マイコだった。4人のうちの一人はアヤメ、もう一人はサエコちゃんだった。あとの1人も知っているはずだが、記憶が曖昧ではっきり思い出すことができない。リエだったような気がする。
アヤメは窓側2列目の後ろから2番目あたりの席に座っていた。サエコちゃんは窓側3列目の1番前の机に浅く腰掛け、リエは廊下側3列目の真ん中あたりの席の近くに立っていた。みんなそれぞれ自分のことをしていた。私はこの中の誰かが最後の1人になるのは辛いかと思い、1人ずつ、一緒にやろうと声をかけていった。ちなみにこの時の「最後の1人」が何を指していたのか今はもうわからない。教室を去る最後の1人なのか、あるいは彼女を覚えている最後の1人なのか。けれどもみんな同じ想いだったのか、4人ともすぐに賛成してくれた。

私たちは教室の窓側の一番後ろ、掃除ボックスの前辺りに円になってあつまっていた。アヤメはそのまま自分の席に座ったまま、廊下側に体を向けていた。私はアヤメの右側に立っていた。私の対角線上にはサエコちゃんが、私の右隣にはリエが立っていた。4人とも口数が少なかった。これから記憶の設定を解除するのだ。記憶の設定は、制服の上に着ているティシャツを脱ぐことで解除される仕組みになっていた。私たちはみんなそれを知っていた。私は教室の内側を向いて立っていたため、そこから教室全体を視野にうつすことができた。ふと顔を上げると、廊下側2列目の前から3、4番目辺りの席にマイコが座っていた。マイコは背筋を伸ばして前を向いていたので、どんな表情をしているのかわからなかった。誰かが静かにせーのと声をかけたが、私はタイミングがあわず少し先走り気味にティシャツを脱いでしまった。ティシャツをたくしあげるとき、みんなの間から席に座っているマイコが見えた。そしてティシャツが下から上へ顔を横切って、一瞬視界が遮られたあとすぐにまた開けた。

すぐにあの席をみた。マイコはいなかった。いなかったが、いないことに気づくことができた。なんだ、覚えてるじゃんと思った。しかしもう一度記憶の輪郭をなぞろうとした瞬間、それはわずかな絵の具が水に溶けこむようにすうっと消えた。マイコがこの世に存在するものであったことは、さっきまでそこにあった体温から感じることができた。それは手を触れればなにかしらの形になりそうなほど確かな、感触と呼べるほどの感覚だった。しかし残ったのはそれだけだった。その他一切の事柄は、少しの余韻すらも残さず完全に記憶の水に溶け込んで、もう絶対に思い出すことはできない。残された体温も、時間とともにゆっくりと、しかし確実に、いつしか空気と同じ温度になっていった。

夕日が教室中をオレンジ色に染めていた。

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勉強の時はとりあえず耳をつかう

昔からそうだった。教科書を読むより先生の説明をきく、ノートを読み返すときは音読する、問題を解くときは考えていることも全部声に出すなど、私は耳で学ぶのが一番効率がよかった。

ちょうど一年前、ある本をきっかけに、これがちゃんと根拠に基づいていることを知る。

ソーシャル・エンジニアリング

ソーシャル・エンジニアリング

ご覧の通りこの本は効率のいい学習方法を紹介する指南書ではなく、伝説のハッカーがその手口を解説!大企業が情報流出を防ぐには?みたいな全く畑違いの内容で、上司におすすめされたから仕事に活かそうと思い読みはじめた。仕事に役立つ知識ももちろんたくさん得られたが、私が最も印象に残ったのはやっぱり冒頭で話した箇所だ。

著者のハドナジーは人を「視覚型」と「聴覚型」と「触覚型」に分け、それぞれに効果的なソーシャルエンジニアリングの手法があると説明している。私はハドナジーがいうところの「聴覚型」だったのだ。だから単語帳を黙々と眺めたり要点を書き写すやり方では身につかなかったのだなぁと、妙なところで納得してしまった。音楽をききながら勉強なんてもっての他だった。思い返してみれば勉強の時だけではなく、読書のときも文章は全て脳内で再生されているし音楽をきいたときもメロディは一度きけば覚えられるのに歌詞は何度きいてもちゃんと覚えられない。

調べてみると同じ人でも状況によって「視覚型」になったり「聴覚型」になったり「触覚型」になったりするらしく、それもまた興味深かった。おそらく勉強する時は「聴覚型」だけど映画をみてるときは「視覚型」で人を好きになるときは「触覚型」みたいな、そういうことを言っているんだと思う。あとはやってることは同じでも時間帯によって変わったり、気分に影響されたりもするのかもしれない。

こういう本を読んでいると小説を読んでいるときとは別のベクトルに新しい発見があっておもしろい。小説は内にあるものへの気づき、そうじゃない本は外にあるものとの出会いだ。本を読んでいると自分の心や頭がぐんぐん膨らんでいくイメージが湧いてくる。話がそれたがとにかく、無意識に一番効果的な勉強方法を選んでいた学生時代の自分が誇らしくなった。逆にやってもやっても身につかないことがあったときには、もしかするとそのやり方が自分の「型」に合っていないのかもしれないと、新しい切り口で悩んでみようと思う。

Big Fish

故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。

という老子の教えがある。旅行中にふらっと立ち寄った定食屋の壁に額に入れて飾ってあるのを見て知った。

日本語にすると「善人は不善人の師なり。不善人は善人の資なり。」という意味で、全文はもっと長い。へいはちろうさんという方が全文をわかりやすく訳してくれている。

すぐれた進み方というものは車の轍や足跡を残さない。すぐれた言葉というものには少しのキズもない。すぐれた計算というのは算盤を使ったりしない。すぐれた戸締りというのは鍵やカンヌキをかけずにいても開けることが出来ない。すぐれた結び目というのは縄も紐も使っていないのに解くことが出来ない。この様な物事の見方をする「道」を知った聖人は人の美点を見出すのが上手いので、役立たずと言われて見捨てられる人が居なくなる。またどんな物でも上手く活用するので、用無しだという理由で棄てられる物が無くなる。これを「明らかな智に従う」という。たとえば善人は善人では無い者の手本であり、善人では無い者は善人の反省材料である。手本を尊敬せず反省材料を愛さないというのでは、多少の知恵があっても迷うことになるだろう。こういうのを「奥深い真理」と言う。

Translated by へいはちろう

老子 第二十七章 善人は不善人の師、不善人は善人の資なり | ちょんまげ英語日誌

 

なぜいきなり老子の話をしたかというと、映画「Big Fish」にでてくる父親のセリフでこの老子の教えを連想するものがあったからだ。

おもしろい映画だった。簡単に言うと主人公が父親の人生をたどる話なのだが、父親が嘘つきなせいで語られる人生がメルヘンチックな仕上がりになっていて、その世界観がいい意味でバカバカしいというか、ゆかいで、すきになった。そのくせクライマックス?の息子のセリフ、特に「みんないる」のくだりからは切ないようなあたたかいようなそんな気持ちで胸がいっぱいになって泣けた。

そして、やっぱりというかなんというか、父親の魅力にまんまとはまってしまった。私はくだらないことをいう人がすきなのだ。前に伊坂幸太郎の「重力ピエロ」で登場人物の春が「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」やら「地味で、退屈な事柄にこそ、神様は住んでるんだ」やらいっているのを読んですごく共感した覚えがあるが、今回「Big Fish」の父親に魅力を感じたのもそういう理由だ。

世間で嫌われる悪いやつというのは、単に孤独で礼儀知らずというだけだ。

映画「Big Fish」

改めて書き出してみると老子の教えにも父親のセリフにも「悪いやつ(不善人)」に対する寛容な姿勢が表れているのがよくわかる。この父親老子の教えをユーモアを交えて体現しているように思える。

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出典:The Great Gatsby (2013) Director: Baz Luhrmann. Photography: Simon Duggan. | Cinematography | Pinterest | Cinematografía, Años 20 y Suelos

だめなもののだめなところもそのまま愛せるくらいゆかいなオトナっていいな。

雨は忘れ物をドラマチックにする

ついに雨がやんだので、私は自分の赤い傘をたたんだ。傘をたたみ終え雨上がりのライトグレーな雰囲気の中を無心で歩いていると、まるでこの赤い傘がこの世で最後の色彩だったかのように思えた。ポストの上に忘れられていた眼鏡も、映像と字幕が交互に流れるモノクロサイレント映画の一部のようだ。

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持ち主は授業を受ける時にだけ眼鏡をかける東京大学の学生。男。この日の授業は今受けているもので最後なので、この後家に帰ったらたまっていた家事を終わらせて家賃を振り込みに行こうと思っていた。

彼には気になる人がいた。いつもこの授業で彼の斜め前の席に一人で座っている彼女だ。彼女は目のわるい彼が眼鏡をかけずにみてもわかるほど横顔が綺麗だった。彼は特に彼女の耳の形が好きで、授業に集中しなければと思えば思うほど、斜め前に座る彼女の耳に意識がいってしまうのだった。

 ところが今日、彼女はいなかった。これはこれまでで一度もないことで、真面目な彼は一日も休まず授業に出席していたからすぐにそれがわかった。これが今日の彼の予定を一つ変える出来事となる。

家賃の振り込みが終わり郵便局の外に出ると雨はほとんどやみかけていた。両手がいっぱいだった彼は水滴の残るポストの上にそれらを仮置きし、リュックの中を整理した。予定ではこの後ローソンで一人分の夕ご飯を買い自分の下宿先へ帰ることになっていたが、色々な偶然が重なり、これから彼は例の彼女に会うことになったのだ。

逸る気持ちを抑えつつふとスマートフォンで今の時間を確認すると、約束の時間が目前に迫っている。彼はあわててポストの上に乗せた物たちをリュックにしまい、なにもかも中途半端なまま小走りで待ち合わせ場所に向かった。授業の時にだけかけるあの眼鏡をそこに忘れて。

 

そんな妄想。この映画は誰かが眼鏡を忘れたときに始まり、私がその眼鏡を見つけたときに終わった。みたいな妄想。

この前のハイヒールといい今回の眼鏡といい、雨の日と忘れ物の組み合わせはものすごく相性がいいみたいだ。