Big Fish
故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。
という老子の教えがある。旅行中にふらっと立ち寄った定食屋の壁に額に入れて飾ってあるのを見て知った。
日本語にすると「善人は不善人の師なり。不善人は善人の資なり。」という意味で、全文はもっと長い。へいはちろうさんという方が全文をわかりやすく訳してくれている。
すぐれた進み方というものは車の轍や足跡を残さない。すぐれた言葉というものには少しのキズもない。すぐれた計算というのは算盤を使ったりしない。すぐれた戸締りというのは鍵やカンヌキをかけずにいても開けることが出来ない。すぐれた結び目というのは縄も紐も使っていないのに解くことが出来ない。この様な物事の見方をする「道」を知った聖人は人の美点を見出すのが上手いので、役立たずと言われて見捨てられる人が居なくなる。またどんな物でも上手く活用するので、用無しだという理由で棄てられる物が無くなる。これを「明らかな智に従う」という。たとえば善人は善人では無い者の手本であり、善人では無い者は善人の反省材料である。手本を尊敬せず反省材料を愛さないというのでは、多少の知恵があっても迷うことになるだろう。こういうのを「奥深い真理」と言う。
Translated by へいはちろう
なぜいきなり老子の話をしたかというと、映画「Big Fish」にでてくる父親のセリフでこの老子の教えを連想するものがあったからだ。
おもしろい映画だった。簡単に言うと主人公が父親の人生をたどる話なのだが、父親が嘘つきなせいで語られる人生がメルヘンチックな仕上がりになっていて、その世界観がいい意味でバカバカしいというか、ゆかいで、すきになった。そのくせクライマックス?の息子のセリフ、特に「みんないる」のくだりからは切ないようなあたたかいようなそんな気持ちで胸がいっぱいになって泣けた。
そして、やっぱりというかなんというか、父親の魅力にまんまとはまってしまった。私はくだらないことをいう人がすきなのだ。前に伊坂幸太郎の「重力ピエロ」で登場人物の春が「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」やら「地味で、退屈な事柄にこそ、神様は住んでるんだ」やらいっているのを読んですごく共感した覚えがあるが、今回「Big Fish」の父親に魅力を感じたのもそういう理由だ。
世間で嫌われる悪いやつというのは、単に孤独で礼儀知らずというだけだ。
映画「Big Fish」
改めて書き出してみると老子の教えにも父親のセリフにも「悪いやつ(不善人)」に対する寛容な姿勢が表れているのがよくわかる。この父親は老子の教えをユーモアを交えて体現しているように思える。
だめなもののだめなところもそのまま愛せるくらいゆかいなオトナっていいな。
雨は忘れ物をドラマチックにする
ついに雨がやんだので、私は自分の赤い傘をたたんだ。傘をたたみ終え雨上がりのライトグレーな雰囲気の中を無心で歩いていると、まるでこの赤い傘がこの世で最後の色彩だったかのように思えた。ポストの上に忘れられていた眼鏡も、映像と字幕が交互に流れるモノクロサイレント映画の一部のようだ。
持ち主は授業を受ける時にだけ眼鏡をかける東京大学の学生。男。この日の授業は今受けているもので最後なので、この後家に帰ったらたまっていた家事を終わらせて家賃を振り込みに行こうと思っていた。
彼には気になる人がいた。いつもこの授業で彼の斜め前の席に一人で座っている彼女だ。彼女は目のわるい彼が眼鏡をかけずにみてもわかるほど横顔が綺麗だった。彼は特に彼女の耳の形が好きで、授業に集中しなければと思えば思うほど、斜め前に座る彼女の耳に意識がいってしまうのだった。
ところが今日、彼女はいなかった。これはこれまでで一度もないことで、真面目な彼は一日も休まず授業に出席していたからすぐにそれがわかった。これが今日の彼の予定を一つ変える出来事となる。
家賃の振り込みが終わり郵便局の外に出ると雨はほとんどやみかけていた。両手がいっぱいだった彼は水滴の残るポストの上にそれらを仮置きし、リュックの中を整理した。予定ではこの後ローソンで一人分の夕ご飯を買い自分の下宿先へ帰ることになっていたが、色々な偶然が重なり、これから彼は例の彼女に会うことになったのだ。
逸る気持ちを抑えつつふとスマートフォンで今の時間を確認すると、約束の時間が目前に迫っている。彼はあわててポストの上に乗せた物たちをリュックにしまい、なにもかも中途半端なまま小走りで待ち合わせ場所に向かった。授業の時にだけかけるあの眼鏡をそこに忘れて。
そんな妄想。この映画は誰かが眼鏡を忘れたときに始まり、私がその眼鏡を見つけたときに終わった。みたいな妄想。
この前のハイヒールといい今回の眼鏡といい、雨の日と忘れ物の組み合わせはものすごく相性がいいみたいだ。
今朝見た夢を思い出せない
目覚めてすぐはどうってことない、書き留めるほどでもない夢だと思った。でも今、なんだか取り返しのつかないものを忘れてしまった気分だ。
友だちがいた。悪くない夢だった。同居人にはなぜか本当の内容とは違う話をちょっとだけした。
夜の東京の上り電車は空いている。角の席に座って、みんな一緒にゆられている。外は雨だけど、今は別にそれでもいい。
よだかの星
よく晴れた悲しい夜はいつもよだかを探してしまう。よだかはあのときどんな気持ちだったのだろう。寒くて血を流して上も下もわからなくなって、まがってしまったくちばしでわらったとき、何を考えていたのだろう。
よだかはみんなにいやがられていた。特に鷹なんかは自分と同じ名前がよだかにも使われていることが気に食わなくて、毎回名前を変えろと言ってきた。よだかが「神様が下さった名前だからできない」と言うと
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
重ねて
「(中略)おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」
と言う。さもなくばつかみころすぞと。
お前の名前は借り物だと言われて自分のだめなところを思い返して情けなくて。そういうよだかの気持ちを想うとどうしようもなく涙が出てくる。よだかは自分のためにころされた虫がいたことに気づいたとき、こんな自分のためにころされた虫が不憫でつらいと泣いたけど、そんな私だって普段はよだかのことなんてすっかり忘れて、自分が悲しいときにばっかりよだかのことを想って泣く。
(一たい僕ぼくは、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。)
嫌なヤツになれなかったよだか。ばかなよだか。虫の命なんて想わなくても図々しくだって生きられたのに。
だけどよだかは少なくともひとりぼっちではなかった。よだかにはかわせみや蜂すずめがいた。
よだかは、あの美しいかわせみや、鳥の中の宝石のような蜂すずめの兄さんでした。蜂すずめは花の蜜をたべ、かわせみはお魚を食べ、夜だかは羽虫をとってたべるのでした。
かわせみは「行っちゃいけませんよ」とよだかを引きとめてくれたし、遠くにいる蜂すずめだって最後に挨拶ができなかったことをかなしんでくれただろう。こんな私に想われなくたって、星の出ない夜だって、カシオペア座のとなりのよだかの星を想ってくれる存在がいてよかった。
よだかは、実にみにくい鳥です。
顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。
ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合でした。
青く光る星はほかの星よりも温度が高いと知って、それがよだかにぴったりだと思ったので、私はなんだか嬉しくなった。
- 作者: 宮沢賢治,中村道雄
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この話をこんなにすきになれたのは最後の一文のおかげ。よく晴れた悲しい夜によだかを探してしまうのもそのおかげ。
話の話
「話」という漢字には、送り仮名をつけずに「話(はなし)」と読む場合と送り仮名をつけて「話(はな)し」と読む場合がある。例えば「話をしやすい」という文節の塊があったとして、このままであればああこれは送り仮名をつけずに読む場合の「話」だなとすぐに分かるのだけど、口語などで助詞の「を」が省略されて「話しやすい」という文節になると、送り仮名をつけて読んでもつけずに読んでも一応筋が通ってしまうので、これは本当はどちらを意図していたのかと迷うことがたまにあったりする。
いやいや「話(はなし)」は名詞で「話(はな)し」は動詞なのだから、助詞のついていない「話しやすい」という文節は送り仮名をつけて読む方の「話(はな)し」に決まってるでしょうよとかしこい人は思うかもしれないけど、未熟な私は名詞の「話(はなし)」のつもりで「話しやすい」を使いたいときもあれば動詞の「話(はな)し」のつもりで「話しやすい」を使いたいときもあるのだ。正しくない使い方のほうが正しく伝わるなら、私はそちらを使うほうが正しい言葉の使い方だと思う。
おかげで誰かに「話」という漢字を使うときその辺りの意図が相手にちゃんと伝わるかどうか毎度気になってしまうのだけど、要は何が言いたかったかというと、どっちの「はなし」を使っているかわざわざ気にしたり説明したりしなくてもちゃんとわかってくれてるだろうと思える相手がいるっていいことだなぁということ。