チューリップ(仮)

ガラにもなくこんなことをはじめてる

タバコ

村上春樹の本に出てくる「僕」みたいな友だちがいた。留学中に出会った日本人だった。留学先はおとなりの国中国だったから、日本人の留学生もそれなりにいて、そのうちのひとりがこの友だちだった。

眠りたくない夜なんかは連絡して、ルームメイトを起こさないよう寮のベランダに出て、寒いからそれぞれ上着を着て毛布にくるまって、向こうはホットのコーヒーを、こっちはホットのココアを両手にもって、借りている本の話やすきな色の話など、色んなことを話した。飲み物がお酒になることもあった。何も話さずぼーっとしたりそれぞれの考えに耽ったりする瞬間もあった。沈黙は毛布と夜が埋めてくれた。月が左から出てきて右へ消えていくところを何度もみた。長い間連絡をとっていなくったってあいつはあいつでよろしくやってるだろうなと、なんとなく分かり合える相手だった。ちなみに毛布と夜が沈黙を埋めてくれたといったが、これはいかがわしい意味ではなく単に寒さと時間帯と沈黙の心地よさを強調しているだけなので誤解しないでほしい。

そんな友だちから最近連絡がきた。ちょうど私も何してんのかなって思っていたところだった。前みたいに色んな話をして、その流れでタバコを吸い始めたらしいことを知った。

あの友だちは、私の知らない間にタバコを吸う人になっていた。そのことに私はものすごく動揺した。電話の向こうにいる相手が急に遠い存在に感じた。勝手に大人みたいな事を始めている友だちに恨み言を言いたくなって、理不尽なその感情を表に出さないようにするので精一杯で、なにも言葉にできず、ただひとこと「そう」としか言えなかった。

あいつについて私が知っていることはそんなに多くないし、私に黙っていることがいくつあっても別によかったし、そんなことは取るに足らない小さなことだったし、今までそれが気になったことなんて一度もなかった。さらに言えばタバコを吸っている人に偏見もない、人がタバコを吸っているかどうかなんてさっきすれ違った人が眼鏡をかけていたかどうかくらい興味がない、なんなら同居人も喫煙者だし、タバコを吸う仕草は男女に限らず魅力的だと思うことだってある。

だけど私はそのとき、もうあのときのあいつはいなくなったんだと思ってしまった。あいつの肺は汚れてしまった。大人になってしまった。もう二度と同じ味の空気を吸うことはできない。もう二度と、同じ味の空気を吸ってその味についてあーだこーだと語り合うことはできない。「タバコがうまい」というありふれた言葉、あいつの口から何気なく放たれたその一言は、かけがえのない宝物をどこにでも投げ売りされている安いレプリカのガラクタにしてしまったのだ。

あるいはそういう時期が来たというだけのことなのかもしれない。安いレプリカのガラクタは、大人になるにつれ飽きられ忘れられ、捨てられる。私だけが未だここにいる。