チューリップ(仮)

ガラにもなくこんなことをはじめてる

Big Fish

故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。

という老子の教えがある。旅行中にふらっと立ち寄った定食屋の壁に額に入れて飾ってあるのを見て知った。

日本語にすると「善人は不善人の師なり。不善人は善人の資なり。」という意味で、全文はもっと長い。へいはちろうさんという方が全文をわかりやすく訳してくれている。

すぐれた進み方というものは車の轍や足跡を残さない。すぐれた言葉というものには少しのキズもない。すぐれた計算というのは算盤を使ったりしない。すぐれた戸締りというのは鍵やカンヌキをかけずにいても開けることが出来ない。すぐれた結び目というのは縄も紐も使っていないのに解くことが出来ない。この様な物事の見方をする「道」を知った聖人は人の美点を見出すのが上手いので、役立たずと言われて見捨てられる人が居なくなる。またどんな物でも上手く活用するので、用無しだという理由で棄てられる物が無くなる。これを「明らかな智に従う」という。たとえば善人は善人では無い者の手本であり、善人では無い者は善人の反省材料である。手本を尊敬せず反省材料を愛さないというのでは、多少の知恵があっても迷うことになるだろう。こういうのを「奥深い真理」と言う。

Translated by へいはちろう

老子 第二十七章 善人は不善人の師、不善人は善人の資なり | ちょんまげ英語日誌

 

なぜいきなり老子の話をしたかというと、映画「Big Fish」にでてくる父親のセリフでこの老子の教えを連想するものがあったからだ。

おもしろい映画だった。簡単に言うと主人公が父親の人生をたどる話なのだが、父親が嘘つきなせいで語られる人生がメルヘンチックな仕上がりになっていて、その世界観がいい意味でバカバカしいというか、ゆかいで、すきになった。そのくせクライマックス?の息子のセリフ、特に「みんないる」のくだりからは切ないようなあたたかいようなそんな気持ちで胸がいっぱいになって泣けた。

そして、やっぱりというかなんというか、父親の魅力にまんまとはまってしまった。私はくだらないことをいう人がすきなのだ。前に伊坂幸太郎の「重力ピエロ」で登場人物の春が「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」やら「地味で、退屈な事柄にこそ、神様は住んでるんだ」やらいっているのを読んですごく共感した覚えがあるが、今回「Big Fish」の父親に魅力を感じたのもそういう理由だ。

世間で嫌われる悪いやつというのは、単に孤独で礼儀知らずというだけだ。

映画「Big Fish」

改めて書き出してみると老子の教えにも父親のセリフにも「悪いやつ(不善人)」に対する寛容な姿勢が表れているのがよくわかる。この父親老子の教えをユーモアを交えて体現しているように思える。

f:id:nichomenosakurako:20171025103557j:image

出典:The Great Gatsby (2013) Director: Baz Luhrmann. Photography: Simon Duggan. | Cinematography | Pinterest | Cinematografía, Años 20 y Suelos

だめなもののだめなところもそのまま愛せるくらいゆかいなオトナっていいな。