檸檬
この前少しだけ檸檬のことを書いた。
そのとき私はなんのためらいもなく「私」のことを彼と呼んだが、もう一度確かめてみて、それはやっぱり間違いではないと思った。
そもそも私には、女が友達の家を転々としながらその日暮らしをしたり、精神を病んで借金をしていたりするイメージがあまりできないという前提がある。これはあくまでも私が個人的に抱いているこの時代の物語の登場人物としての女の印象なので、もちろんこの世の全ての女性がそうだとは思っていないが、そういう印象があるからこの檸檬の「私」に対しても、もし女だったら結婚しているか何か仕事をしているだろうし、お金に困ったら借金ではなく男などの相手をして食い扶持を稼ぐだろうと思うのだ。
その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていた
察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。(中略)書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。
だけどイメージの話はあくまでも前提にすぎない。もっと注目したところは個人的にこの部分だ。
それからまた、びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄れた私に蘇えってくる故だろうか、まったくあの味には幽かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
断言してもいい、おはじきを舐めて味わってこんなに冷静に分析してほめちぎるなんて、こういう変態さは男にしかだせないのではないだろうか。この話では檸檬のくだりが注目されがちだが、おはじきの話もたいがい変態だ。私はばかばかしいと思いつつも男のこういう変態さが羨ましいのだ。
例えば私は小学生のとき同級生の男子に突然鼻ちょうちんの作り方を教わったことがある。彼は顔もよく運動もできおまけに中学生のお兄ちゃんがいたおかげて少し大人びていたから私はてっきり自分とは違う世界に住む人だと思っていたが、彼も他の男子同様鼻ちょうちんの作り方を閃いたことに浮かれたり、それをほとんど話したことのない同級生にも得意げに披露したくなったりするのだなぁと、その時しみじみ親しみを感じたものだ。そして同時に、そんなことをしても平然と許されなおかつ人気者であり続けられる彼を羨まく思った。
私はそのとき自分もやってみたかったのだ。彼のように見事な鼻ちょうちんを作ってみたかった。でもできなかった。そうするためには女を捨てなければいけなかったからだ。女たるもの、鼻ちょうちんははしたなく、あほくさく、ばっちいものでないといけないのだ。
このおはじきのくだりを念頭に置いて最後の檸檬のくだりを読むと、もうこれは完全に男の変態さがなせるものとしか考えられなくなる。なんだ、爆弾って。ばかじゃないの。私もやりたい。これだから男は。
LAWSONのスープとかの容器(檸檬)
これは文明だ。文明の利器だ。あつあつにチンしても熱くならないのだ。
あまりに熱くならないもんだから、はじめはチンが足りないか電子レンジが壊れたのかと思った。それくらい温まらなかった。まさか容器に仕掛けがあるとはつゆほどにも思わず、示されている温め時間の約2倍チンした。それでもこの文明の利器は涼しい顔をしていた。
もうかなわんと諦めてそのまま食べようとしたところ、開いた蓋の隙間から擦り傷がつきそうなほどの熱気が出てきた。そこでこの容器が工夫されていることに気づき、冒頭の一言に至る。私は思わぬところで文明に触れ、実感をともなう理解を得たのだ。
この心の高ぶりは積み上げた本の山に檸檬を乗せて逃げ出した「私」のそれに近い(梶井基次郎 檸檬)。彼の言葉を借りるならこれはまさに爆発だ。
- 作者: 梶井基次郎
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神様のボート
同居人が隣ですやすや寝息をたてている。頬の産毛が月明かりにうっすら浮かんでみえる。手を触れると嫌がるので、こういうときはいつもただそっと眺めている。
私は彼の骨格、特に額から鼻、頬にかけての骨の感じがすきだ。顔に触れたときの皮膚の柔らかさとその下の骨の硬さ、そして頭全体のしっとりとした重みを感じるのがすきだ。
「神様のボート」の葉子も'あのひと'の額や背骨や肩のくぼみなんかの話をよくしていたっけな。彼女の生き方は身勝手すぎて私はすきじゃないけれど、彼女が'あのひと'のことや'あのひと'への気持ちを表現するときの言葉遣いはいつもすごくしっくりくる。
葉子なら、今の気持ちをどんな風に表現するだろうな。
- 作者: 江國香織
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勉強の時はとりあえず耳をつかう
昔からそうだった。教科書を読むより先生の説明をきく、ノートを読み返すときは音読する、問題を解くときは考えていることも全部声に出すなど、私は耳で学ぶのが一番効率がよかった。
ちょうど一年前、ある本をきっかけに、これがちゃんと根拠に基づいていることを知る。
- 作者: クリストファー・ハドナジー,成田光彰
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ご覧の通りこの本は効率のいい学習方法を紹介する指南書ではなく、伝説のハッカーがその手口を解説!大企業が情報流出を防ぐには?みたいな全く畑違いの内容で、上司におすすめされたから仕事に活かそうと思い読みはじめた。仕事に役立つ知識ももちろんたくさん得られたが、私が最も印象に残ったのはやっぱり冒頭で話した箇所だ。
著者のハドナジーは人を「視覚型」と「聴覚型」と「触覚型」に分け、それぞれに効果的なソーシャルエンジニアリングの手法があると説明している。私はハドナジーがいうところの「聴覚型」だったのだ。だから単語帳を黙々と眺めたり要点を書き写すやり方では身につかなかったのだなぁと、妙なところで納得してしまった。音楽をききながら勉強なんてもっての他だった。思い返してみれば勉強の時だけではなく、読書のときも文章は全て脳内で再生されているし音楽をきいたときもメロディは一度きけば覚えられるのに歌詞は何度きいてもちゃんと覚えられない。
調べてみると同じ人でも状況によって「視覚型」になったり「聴覚型」になったり「触覚型」になったりするらしく、それもまた興味深かった。おそらく勉強する時は「聴覚型」だけど映画をみてるときは「視覚型」で人を好きになるときは「触覚型」みたいな、そういうことを言っているんだと思う。あとはやってることは同じでも時間帯によって変わったり、気分に影響されたりもするのかもしれない。
こういう本を読んでいると小説を読んでいるときとは別のベクトルに新しい発見があっておもしろい。小説は内にあるものへの気づき、そうじゃない本は外にあるものとの出会いだ。本を読んでいると自分の心や頭がぐんぐん膨らんでいくイメージが湧いてくる。話がそれたがとにかく、無意識に一番効果的な勉強方法を選んでいた学生時代の自分が誇らしくなった。逆にやってもやっても身につかないことがあったときには、もしかするとそのやり方が自分の「型」に合っていないのかもしれないと、新しい切り口で悩んでみようと思う。
よだかの星
よく晴れた悲しい夜はいつもよだかを探してしまう。よだかはあのときどんな気持ちだったのだろう。寒くて血を流して上も下もわからなくなって、まがってしまったくちばしでわらったとき、何を考えていたのだろう。
よだかはみんなにいやがられていた。特に鷹なんかは自分と同じ名前がよだかにも使われていることが気に食わなくて、毎回名前を変えろと言ってきた。よだかが「神様が下さった名前だからできない」と言うと
「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ。」
重ねて
「(中略)おれがいい名を教えてやろう。市蔵というんだ。市蔵とな。いい名だろう。そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」
と言う。さもなくばつかみころすぞと。
お前の名前は借り物だと言われて自分のだめなところを思い返して情けなくて。そういうよだかの気持ちを想うとどうしようもなく涙が出てくる。よだかは自分のためにころされた虫がいたことに気づいたとき、こんな自分のためにころされた虫が不憫でつらいと泣いたけど、そんな私だって普段はよだかのことなんてすっかり忘れて、自分が悲しいときにばっかりよだかのことを想って泣く。
(一たい僕ぼくは、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。)
嫌なヤツになれなかったよだか。ばかなよだか。虫の命なんて想わなくても図々しくだって生きられたのに。
だけどよだかは少なくともひとりぼっちではなかった。よだかにはかわせみや蜂すずめがいた。
よだかは、あの美しいかわせみや、鳥の中の宝石のような蜂すずめの兄さんでした。蜂すずめは花の蜜をたべ、かわせみはお魚を食べ、夜だかは羽虫をとってたべるのでした。
かわせみは「行っちゃいけませんよ」とよだかを引きとめてくれたし、遠くにいる蜂すずめだって最後に挨拶ができなかったことをかなしんでくれただろう。こんな私に想われなくたって、星の出ない夜だって、カシオペア座のとなりのよだかの星を想ってくれる存在がいてよかった。
よだかは、実にみにくい鳥です。
顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。
ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合でした。
青く光る星はほかの星よりも温度が高いと知って、それがよだかにぴったりだと思ったので、私はなんだか嬉しくなった。
- 作者: 宮沢賢治,中村道雄
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この話をこんなにすきになれたのは最後の一文のおかげ。よく晴れた悲しい夜によだかを探してしまうのもそのおかげ。