最近よく思い出すこと
母に怒られたときのことだ。
母にはよく叱られた。
母は声が大きく私たち兄弟を叱る時もそれはもうすごい声量だった。家の中はおろか家の裏の小道をはさんだ向かい側にあるしょうこちゃんの家の近くまでよくきこえた。
母はまだ幼い私たち兄弟を叱るとき、忍者屋敷のお土産に買ってもらったプラスチックの短刀でふくらはぎを叩いた。叩かれる回数は「大きく1回」か「小さく10回」かを選ばせてもらえたから、私はできるだけ痛みが少なく済むよう、その都度母の様子を伺いながら「大きく1回」だの「小さく10回」だのと泣きながら答えた。少し成長して知恵がついてからは「中ぐらいで5回」と叩かれる回数を値切ったりもした。
母に叱られるのは怖かったけど、理不尽な理由で怒鳴られたことや手や足で直接殴ったり蹴られたりしたことは一度もなかったので、私はそれらをおそれながらも受け入れ、叱られたことについては幼心にもしっかり反省していた。と思う。
私も弟もある程度成長し、もうふくらはぎを短刀で叩かれることもなくなった頃。母は一度だけ、怒った、ことがある。
年末だった。その日父と弟と私は大掃除のための道具を調達しに買い物に出かけ、ついでに閉店セール中のスポーツショップに寄った。私たち家族は年明けにスキー場へいく予定があったので、その時のウェアやらゴーグルやらをついでに買って帰ることにしたのだ。
これがいけなかった。あれやこれやと選んでいるうちに思ったよりも時間が経っていて、正午には帰ってくる予定だったのが気がつけばもう15時を過ぎていた。その間母はずっと一人で家の掃除をしていた。自分が家族の帰りを待ちながらお昼ご飯も食べずにせっせと家の掃除をしている間に他の3人は高い買い物を楽しんでいたと知った母は、怒った。
あのとき母は叱るではなく怒った。静かにとは言わないものの、いつも私たちを叱るときは明らかに声のトーンが控えめだった。私はその一瞬で買い物の夢から覚めた。私たちは楽しかったからお昼ご飯なんか食べなくてもへっちゃらだったけど、母は年の瀬の寒い中冷たい雑巾をもって家中を動き回っていたからきっとお腹もすいていただろう。帰ってきたらあったかいうどんを作ってあげようと、ずっと待ってくれていただろう。遅いなぁと心配していただろう。母のことなんか、私たちはちっとも考えていなかったのに。
買い物の夢から覚めると同時に、無神経な行いにがっかりされたと思った。母にがっかりされるくらいなら、大声で叱られながらふくらはぎを叩かれる方が何倍もましだった。
あれから10年が経った。私たちが閉店セール中のスポーツショップで過ごしたよりもはるかに長い時間が経った。スポーツショップは予定通り閉店し、スポーツショップがあった場所にはパチンコ屋か何かができた。父は家を出ていった。私たち兄弟も就職や進学で実家を出た。あのありがたい恐怖のしつけのおかげで、ある程度の事は叱られなくても自分でできるようになった。母はようやく自分のために時間を使ってくれるようになった。
そんなことを考えるようになった今日この頃、なぜかあのときの怒った母の姿や、素直に謝ることができず適当にやり過ごしてしまった自分のことをよく思い出す。
これで終わり
ってググったらこの曲がでてきた。
友だちを失って、ヤケになって、弱いくせにのんで、ウォールフラワーをみて、泣いて、ズキズキしてぼーっとした頭でググった。あまりにもぴたっときたからか、きいたら頭が余計ズキズキした。関連動画に「死にたくなるときに聴く曲集」とかでてきてちょっと笑った。
【作業用BGM】 syrup16g 死にたくなるときに聴く曲集 厳選11g - YouTube
ききたくなったけどこれは万が一、同居人と別れたときのためにとっておいた。
ちなみにウォールフラワーもググってみつけた。確か「片思い 友情 映画」とかで調べた。
登場人物はみんな闇を抱えてて、それが今の私のこの喪失感とやるせなさにちょうどよかった。主人公が私の代わりに自殺未遂?をしてくれたみたいな気がしてちょっと気が楽になった。こういうときにすぐに感情移入できるのはとても便利だと我ながら思う。あとパトリックが助手席の窓とかからこっちをみてニヤッと笑うところが何回かあったけど、そのニヤリ顔がなんともかっこよかった。
朝になったらまた仕事だし、いろいろともう、これで終わり。
怖い絵展に行ってきた
今週のお題「芸術の秋」
「怖い絵」展 | オフィシャルホームページ 見どころやチケット情報など 2017年 兵庫県立美術館・上野の森美術館にて開催
11/12 15:00頃に行って、100分待ちだった。結構寒かった。チケットは並ばずに買えた。コンビニなどで買える前売り券は当日券よりも200円安かったけど、デザインがコンビニ仕様のかわいくないやつだったから、もしチケット売り場が並んでたとしても私はかわいい当日券の方を買ってたと思う。
並んでる間、同居人と友だちや恋愛の話をした。あとその辺に生えている中で一番登りやすそうな木はどれかみたいな話もした。並ぶ前に何かあたたかいものと小腹を満たすものを買っておけば良かったと思った。友だちや恋愛や登りやすそうな木の話をしていたから待つのはそんなに苦ではなかった。
17:00前、中に入れた。中も人がいっぱいだった。あと1時間で閉館だったから本当は吉田羊さんの音声解説も借りたかったけどやめた。効率よく回るためにまず最後までさらっと見て気になるものをチェックしておき、そのあとまた最初に戻ってチェックしたものをみていく作戦にした。まるで試験の攻略だと思った。
一言でいうとよかった。でもなんか期待していたよりは楽しめなかったというか、思ったよりはドキドキしなかった。全てこちらの落ち度だが、私にとっては人が多すぎたのと、作品を楽しめるほどの知識がなかったのと、お腹が減っていたのがよくなかったのだと思う。あと私的にはもっと中野京子さんの知識と感性をフルに発揮して、プロにしかできない変態的な趣味を丸出しにしてほしかった。
そういう意味でいうと少し前に行ったゴッホ展や現代アート展の方が変態的で私は好きだったかもしれない。それとももう少しちゃんと勉強して、腹ごしらえをしたあと、音声解説を借りて、平日にいけば変わるのかな。変態さを感じとる技量が私になかっただけなのかも。
以下、個人的にぐっときたやつのメモ。
発見された溺死者
中野京子’s eyeの最後に書かれていた「若くて綺麗でなければならない」にふせんをつけたくなった。苦しんで自殺した女性たちは、死んでもなお弄ばれたのか。
ハイエナと争う鷲と禿鷹
芸術にあまり興味がない同居人が一番長くみていた。同居人は生き物がすきで地球ドラマチックとかダーウィンがきたとかを欠かさずみているくらいだから、私にはわからない何かを感じたのかなと思うと、この絵にも特別な愛着が湧いた。
ソロモンの判決
そっか、そうよなぁ、って。
フォルモススの裁判
キリスト教的に、墓を掘り起こしたり死体にアレコレするのはめちゃくちゃタブーで気持ち悪いことだと聞いたことがある。それを念頭においてみると、これはよっぽどクレイジーなことしてんなってことがわかっておーと思った。
そして妖精たちは服を持って逃げた
一番いいと思った。純粋に絵がきれいだった。ファンタジーなテーマも私好みだったし、よくみると変な顔の妖精が1匹いたのもおもしろかった。
レディ・ジェーン・グレイの処刑
さすがだった。やっぱりってかんじの貫禄。遠くからでもあの人に視線がぐっともっていかれた。あの人のドレスの質感がきれいだった。
お土産に妖精のやつとレディジェーングレイと、切り裂きジャックのポストカードを買って帰った。
ハートビート
ハートビートとは、心臓の鼓動、拍動、心拍という意味の英単語で、ITの分野では、通信ネットワーク上で機器が外部に一定間隔で発する、自らが正常に動作していることを知らせる信号やデータを指すことが多い。
このような単語をきくと業務そっちのけでファンタジーな妄想に没頭してしまう。
ネットワーク機器のような私にとってなんの面白みも感じなかった無機質な物体が実は「私は生きていますよ、問題なくここにいますよ」と誰かに向かって叫んでいただなんて、ロマンだ。これでひとつ物語が生まれてもいいくらいだ。
しかもこの話にはちょっとした続きがあって、それもまたこのロマンをさらに魅力的にしている。
通信プロトコルや通信ソフトなどの場合、死活監視のためだけでなく、通信を確立した相手方とのセッションや接続が途切れることを防ぐため、一定間隔で短い(それ自体は意味のない)データを送信し続けることがある。そのようなデータをハートビートと呼び、これにより接続維持を維持する仕組みを「キープアライブ」(keepalive)という。
意味のないハートビートを送りあうことが、相手とのつながりを維持することになるなんて。しかもそのことをキープアライブと呼ぶなんて。
私も、会社の隅っこでひっそり働いている無機質なアイツのように絶えず誰かとハートビートを送りあっているのかも。知らないあの人もきっとそうなのかも。みんな誰かとキープアライブでかかわりあっているのかも。
ロマンだ。
檸檬
この前少しだけ檸檬のことを書いた。
そのとき私はなんのためらいもなく「私」のことを彼と呼んだが、もう一度確かめてみて、それはやっぱり間違いではないと思った。
そもそも私には、女が友達の家を転々としながらその日暮らしをしたり、精神を病んで借金をしていたりするイメージがあまりできないという前提がある。これはあくまでも私が個人的に抱いているこの時代の物語の登場人物としての女の印象なので、もちろんこの世の全ての女性がそうだとは思っていないが、そういう印象があるからこの檸檬の「私」に対しても、もし女だったら結婚しているか何か仕事をしているだろうし、お金に困ったら借金ではなく男などの相手をして食い扶持を稼ぐだろうと思うのだ。
その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていた
察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。(中略)書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。
だけどイメージの話はあくまでも前提にすぎない。もっと注目したところは個人的にこの部分だ。
それからまた、びいどろという色硝子で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄れた私に蘇えってくる故だろうか、まったくあの味には幽かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
断言してもいい、おはじきを舐めて味わってこんなに冷静に分析してほめちぎるなんて、こういう変態さは男にしかだせないのではないだろうか。この話では檸檬のくだりが注目されがちだが、おはじきの話もたいがい変態だ。私はばかばかしいと思いつつも男のこういう変態さが羨ましいのだ。
例えば私は小学生のとき同級生の男子に突然鼻ちょうちんの作り方を教わったことがある。彼は顔もよく運動もできおまけに中学生のお兄ちゃんがいたおかげて少し大人びていたから私はてっきり自分とは違う世界に住む人だと思っていたが、彼も他の男子同様鼻ちょうちんの作り方を閃いたことに浮かれたり、それをほとんど話したことのない同級生にも得意げに披露したくなったりするのだなぁと、その時しみじみ親しみを感じたものだ。そして同時に、そんなことをしても平然と許されなおかつ人気者であり続けられる彼を羨まく思った。
私はそのとき自分もやってみたかったのだ。彼のように見事な鼻ちょうちんを作ってみたかった。でもできなかった。そうするためには女を捨てなければいけなかったからだ。女たるもの、鼻ちょうちんははしたなく、あほくさく、ばっちいものでないといけないのだ。
このおはじきのくだりを念頭に置いて最後の檸檬のくだりを読むと、もうこれは完全に男の変態さがなせるものとしか考えられなくなる。なんだ、爆弾って。ばかじゃないの。私もやりたい。これだから男は。